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院長のぐぶやき「しくれのんどりーむ」

寄稿文・大阪医大神経精神医学教室同門会誌第14号掲載

2015年1月23日 |

― 夢を紡いで ―   うえさかメンタルクリニック開院                        

 

還暦を迎えたら故郷の兵庫県でクリニックを開院しよう。漠然と、そう考えていました。なにも60歳まで待たなくても、クリニックを開院したかったら、若いうちに実行すればいいのですが、30代、40代の頃は、同僚が開院しても他人事で、自分が開院する気は全くありませんでした。精神科病院で入院されている患者さまと接することで自分なりに精神科医として満足していたのかもしれません。先輩の先生方に「患者さまから学びなさい」と教えられ、病棟で患者さまと接することが楽しく、自分の無力さを悩みながらも充実した日々でした。趣味の競馬を楽しみながら、のんびりと精神科病院勤務を続けることが自分に合っていると思っていたのかもしれません。患者さま本位の医療、チーム医療、地域に愛される病院医療。精神科病院勤務医として、自分なりに、向上心を持って、一生懸命生きてきたつもりです。

平成2686日、神戸市東灘区御影本町4丁目1014-2 沢ノ井マンション1階に、うえさかメンタルクリニックを開院しました。開院10日前、早朝に六甲アイランドの自宅を車で出発し、故郷の実家まで母親を迎えに行き、開院前のクリニックを見せました。87歳の母親は「ここで開業するの」と75.69㎡の狭いクリニックを眺めて喜んでくれました。「落下傘開業だから、これから 2年間、いばらの道が待っている」と自覚しながらも、開院を素直に喜んでくれている母親に、ひとつ親孝行ができたと思いました。

私の実家は兵庫県北部但馬地方・JR西日本山陰本線・国府駅(豊岡駅と江原駅の間にある無人駅です)の前にあります。兵庫県豊岡市日高町上石、まわりを見渡せば田んぼばかりの牧歌的なところです。国府駅前に100坪以上の土地があります。平成712月に74歳で亡くなった父親が生前、口癖のように私に話していました。「おまえが将来、故郷で開業したいと思ったら、駅前のこの土地を使え」。その言葉が、父親からの遺言のように心に残っていました。開院前 1年間、但馬病院に週1(土曜日)非常勤勤務をさせていただきましたが、落下傘開業で、この場所はしんどい、未練を残しながら断念しました。

「故郷である兵庫県で開院する」私はなぜか、こだわりました。どうしてでしょうか? 理屈なんてありません。兵庫県が好きなんです。30年間、大阪府で精神科病院勤務をしていて、慣れているなら、大阪府下で開院すればいいのですが、私は「兵庫県で開院する」と決めていたのです。私は、こだわることが好きな人間です、兵庫県が好きなんです、よくわかりません? 

私は、平成2831日、36歳の時に、神戸市東灘区の六甲アイランド・イーストコート4番街のマンションを購入して入居しました。当時、バブルがはじける直前の時期、申込みが殺到して高い競争率でした。どうせ、当たらないならば、一番高倍率の部屋に申し込もう、というわけで18階建て15階部分の住居に登録しました。確か競争率110倍でしたか? どうせ当たってないだろうと思い、抽選日に電話で確認するように言われていたのですが確かめずに放っておいたところ、当時、非勤務勤務していた赤穂仁泉病院に電話がかかってきました。「マンション、当選されましたが、申込みされないんですか?」。これには、さすがに私も驚きました。本当にマンション当たったんですか? ここから神戸市との付き合いが始まりました。神戸、大好きです。私の第2の故郷です。阪神大震災も経験しました。たまたま、マンション理事をしていた私は、神戸復興のために、マンション補修のために、またボランティア医師として、私なりに頑張りました。楽しい想い出も、苦い想い出も、すべて神戸にあります。「私が住んでいる神戸市と故郷・豊岡市を結ぶ線上、すなわち、豊岡市、養父市、朝来市、丹波市、篠山市、三田市、神戸市のどこかでクリニックを開院したい」漠然と無計画に、そう思っていた私が、その後、三田市に絞り、物件を見て回り、さらに検討して、最終的に神戸市東灘区を選んだのは、運命だと思っています。神戸市で暮らし、神戸市でクリニックを開院する運命にあったのだ、と思っています。なにも激戦地区の神戸東灘区でやらなくても、と言われましたが、いいんです、私は、好きなところで、好きなことをするんです。

596ヵ月で開院して、その半年後の平成26 2 6日、私は還暦を迎えました。まだまだ、燃えるものがあります。このエネルギーの源は、何なんでしょうか? シクレノン愛馬会を主宰し、明けても暮れても競馬のことばかり考えていた私に大きな転機がやってきました。平成23(オルフェーブルが第7代三冠馬になった年) 6月、可愛い息子が生れたんです。その時、私は574ヵ月。私は舞い上がってしまいました。それまで年賀状といえば競走馬の写真ばかりでしたが、平成24年度の年賀状から、競走馬をやめて息子の写真に変えました。カメラが趣味ですが、愛用のニコンD300で息子の写真ばかり撮るようになりました。友人から「馬の写真、やめたの?」と冷やかされながら、ひたすら息子の写真を撮り続けています。息子の競走馬名はシクレノントレジャーです。この息子が、パパのエネルギーの源なんです。

開院にあたって、一番、新鮮で刺激的だったことは? と訊かれれば・・・「電子カルテ」と答えます。30年間、紙カルテ一筋で、オーダリングシステムすら縁がなかったのですから、大変です。当初「精神科は、正面に向き合って、相手の目を見て、ゆっくり話すもの」という考えから、紙カルテでいこう、と思っていたのですが、開院にあたって、月1度のレセプト請求、書類の保存などを考えた時、労力が20分の1になるならば、と効率を考慮して「電子カルテ」へ。この思い切った方向転換を決定したのは、開院 4ヵ月前の平成25 4月上旬でした。電子カルテを「AI クリニック(エー・アイ・クリニック)」に決定したのが 5月中旬。あとは必死です。クリニック改装中の 6月は週2(月・木)午後5時に青葉丘病院を飛び出して大阪市中央区徳井町にあるハイブリッド社に行って午後6時~8時過ぎまで、マンツーマンで猛訓練。クリニックが出来て電子カルテが第1診察室(ホワイトローズ)に設置されてからは、専任スタッフに来てもらって集中的に電子カルテ操作を教えて戴きました。開院前の 2ヵ月間は、とても刺激的な日々でした。乾いた砂に水が吸い込まれる、とはこのことです。なんとか、未熟なりにも電子カルテが使えるようになって、無事 86日の開院にこぎつけました。開院後は、電子カルテに振り回されながらも、なんとかやっています。59歳開院の私にとっては、認知症予防にいいのかもしれませんね? 頑張ります。

激戦区、神戸市東灘区でのメンタルクリニック落下傘開業。採算がとれるようになるまで 2年程度はかかると考えています。まあ、トレジャーくんとお風呂に入ることを楽しみに、のんびり、やらせていただきます。 

 ロマンとは、自分が理想とする生きざま。 

『病院医療30年、クリニック医療20年、計50年、生涯一精神科医』これが私の夢でありロマンです。

風変わりな精神科医ですが、奇を衒うことなく、誠実で良心的な精神医療を実践していきたいと願っています。

今後は、地域に密着した地域の人々に愛され信頼されるメンタルクリニックを目指します。微力ながら地域医療に貢献できるよう頑張りたいと思います。皆さま、今後とも御指導の程、よろしくお願い申し上げます。

 

平成26 6 6()  

                                  うえさかメンタルクリニック開院10ヵ月を迎えた日に

                                                          植 坂 俊 郎

               

 

Cyclennon  Point : 16(1)   150123    DAY  345     Heart  &  Romanticism  By  CyclennonDream  

 

 

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